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サイエンス・デザイナーDr.KINOKOYAのAcademic Tips

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Essay | DNAとの約束

 先日、F大のF教授の講演会に鞄持ちとして行ってまいりました。この教授は、時折はっとする台詞を吐くので目が離せない大好きな先生です。今回の講演でも珠玉の台詞を残してくれましたので、ちょっとご報告。

 「人は死を約束して生れて来る」ちょっと、どきっとする言葉ですが、常々生と死を考えているきのこやとしては。的を射た端的な言葉として心に響いたのでした。

先生は、神経精神薬理の専門家で、ぼけの予防と治療の薬の開発を主に研究しています。ま、平たく言えば、脳みその活動をミクロからマクロまで研究する人ですね。今や医学の世界はDNAを直接いじれる時代になりましたので、どきどきするような新発見が目白押しです。その中身は、まるで哲学や宗教の教義のような深く考えさせられるものもあります。

 僕たちの身体の細胞は、あらかじめ寿命が決まっています。例えば、血液の中で酸素を運ぶ赤血球の寿命は120日だそうです。この寿命は、細胞の中にあるDNAにタイマーみたいなものが付いていて、時期が来ると死の遺伝子が働いて、細胞自らが自殺をするわけです。これを専門用語ではアポトーシス(枯死)といいますが、例えば、樹木の葉っぱが秋になって色づいて、やがて枯れて枝からはらはらと落ちる。これは、新しい世代の細胞が春を迎えて生れて生きて行くために古い世代が自らの役目を終えて、アポトーシスを起したからです。つまり、死そのものは生を続けるための、避けられない意味のあることだと言うことです。

 一方、新しくできた細胞は、活発に細胞分裂をおこしながら増えて、アポトーシスで失われた機能を埋め合わせていきます。そこでは、生の遺伝子ともいえるDNAが働いているわけです。生き物の身体は、単純に言うと、この生の遺伝子と死の遺伝子のバトンタッチリレーで生きている、とも言えるわけです。つまり、僕たちの身体の細胞は、ミクロレベルで見た場合、死ぬことによって新しい世代を産み育て、そのリレーそのものが生きているという現象の本質なわけです。

 さらに、個体そのもの、自分で意識できる自分の身体全体も、このDNAリレーの延長にあるわけで、やがてはその役目を終えて、死を迎えるわけです。この世に生を受けて、親に育てられ、結婚して、子供を産み育て、そして死んでいく。それは、あたかも、赤血球が生と死のバトンタッチリレーをしているようなものとも言えるでしょう。

 さて、このように僕たちの身体は、あらかじめ死を約束して生れてきましたが、その死に方にもちょっとしたハプニングが起ります。それが病気です。アポトーシスは自然なことですが、生き物の世界は不思議な世界で、ちょっとしたきっかけで、急激に死の遺伝子が大量に動き出すことがあるのです。例えば、原因不明のぼけであるアルツハイマー病。これは、普通はゆっくりと起るアポトーシスが、脳細胞で急激に起り、脳細胞がどんどん自殺していく病気です。原因はまだ漠然としかわかっていないそうです。また逆に、生の遺伝子がタイマーに従わずに無限に増殖を繰り返しアポトーシスを起さなくなった病気。これがガンです。

 これらは、どちらもDNAの信号が上手く働かずに、不自然な形で、大量に急激にバランスを崩した結果起るものなのです。現在、たくさんの研究者がこれを解明しようと努力しています。いくつかの病気に付いては、DNA治療も試みられ始めています。

 このように見てくると、自分の生き方に何が見えてくるのか?僕には、人間の生とはかりそめのものにすぎないと見えてきます。これは、ヘタに考えるとニヒリズムに陥って、どうせ死ぬんなら生きている意味がないじゃないかとも思えます。しかし、それはあまりにも個人主義的な独善にすぎません。

 教授はこうも言いました。「DNAは僕らの身体を信じていない」。何故、男と女は出会い、結ばれて子供を作るのか?それは、DNAを掛け合わせることによって、多様性を生みだし、刻一刻と変っていく環境の変化に耐えて生き延びるためです。ずっと同じ身体を信じて、生の遺伝子だけで繰り返して続けていたら、なにか突発的な環境の変化が起った場合、すべての遺伝子が絶滅してしまう可能性が高くなるからです。

 つまり、DNAは細胞レベルでも個体レベルでも、ひょっとすると社会レベルでも、生と死をコントロールしながら、常に生き延びることを目的としているわけです。そして、DNAそのものは、時々刻々と形を変えながら、しかし永遠に生き続けているわけです。まるで方丈記の一節「流れに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、しかもとどまりたるためしなし」を聞いているようです。

 もちろん、何らかの突発的事故により途絶えてしまった系統もあるでしょう。例えば、ネアンデルタール人や北京原人のDNAは直接われわれのDNAの祖先でないことがわかっていますが、彼らのDNAは途絶えてしまったわけです。しかし、その源流は同じものであり、今もこうして僕たちの身体の中に脈々と形を変えてバトンタッチされているわけです。これは、動物行動学者リチャード・ドーキンスの「遺伝子乗り物説」にも通じる考えですが、DNAという世界から見た場合、僕らの肉体は、かりそめの乗り物に過ぎないわけです。

 こう考えてくると、やれ上司の出来が悪いだとか、部下が働かないだとか、株が下がっただとか、亭主が浮気をしただのとかの僕らが認識可能なこの世のさまざまな出来事は、まさに「うたかた」であり、虚ろなものに見えてきます。僕らが見ている世界は、DNAバトンタッチリレーという無限で巨大な時間の流れの中では、ほんの一瞬でしかなく、そこでおこる悲喜交々も一瞬の瞬きでしかないのです。しかし、それでも生きていかなければならない。いや、そういう義務ではなく、まるで草花がそっと花開くように、ただ淡々と生きていく。それは、それが自然なことだからです。死が待っているのなら生きている意味がないというのは、この巨大な時間の流れでのDNAとの約束、結びつきを無視した、孤独で独善的な考えにすぎないのでは、と思えてきます。僕たちは決して一人ではなく、DNAという大きな列車の同乗者なのかもしれません。

 僕はきのこの栽培を生業としています。僕のところのきのこは、広いベッドの上にたくさんのきのこがにょきにょき出てきます。一見、それらのきのこは一つ一つが独自の生き物のように見えますが、その下には地球を何周もするぐらいの長さの菌糸が網の目のように走っています。科学的には、それら地下の菌糸も地上のきのこの群れもあわせて一つの生き物と言われています。巨視的に見れば、同じDNAを持っているのです。そして恐らくは、何億年もの昔、僕とそのきのこは同じDNAから分かれてきたものなのです。

 まるで禅の境地のような死生観。DNAの目に見えない振る舞いから、最先端の科学者は知ってか知らずかその契約書を垣間見てしまったようです。

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