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サイエンス・デザイナーDr.KINOKOYAのAcademic Tips

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Foreign country | 待ち時間

僕の10年来の中国人の友人はとても働き者である。常々「浪費はいけません!」を口癖として、ちょこまかちょこまかと多くの仕事をこなしている。1929年生まれの彼に対して、1964年生まれの若輩が友達というのは失礼な話だが、彼の大人を彷彿とさせる人となりが世代の差を感じさせない。だから僕は尊敬を込めて、老朋友(ラオ・パンヤオ)と彼のことを呼ぶ。

友人の誘いで芝居を見に行った。文学座のモンテクリスト伯。僕の住む人吉は九州は熊本の最南端にあり、高速道路が開通するまでは、陸の孤島と呼ばれた僻地である。こんな田舎でどうして芝居がと思ったのだが、話によるとボランティアのサークルが会員を募り、あらかじめ集めた会費によって年に数回自分達が見たい芝居を呼ぶ活動をしているという。いくつかの団体があり、地域間で連携した協議会のようなものもあるようである。ま、芝居の生協活動みたいなものだ。

モンテクリスト伯。タイトルを知らない人は恐らく居ないと思うが、しかし、文学の好きな人を除いて、内容を知る人は意外と少ないのではないだろうか。かくいう僕も、中学だか何かの夏休みの読書感想文用に買った覚えはあるのだが、読んだ覚えは全くない(笑)。

ストーリーは、婚約披露パーティの最中に無実の罪で突然逮捕され、14年間地下牢に投獄された青年が、地下牢で知り合った人物の隠し財産を元手に伯爵として社会復帰し、かつて自分を陥れた人々へ恨みを晴らすことを生きがいとする復讐劇である。原作は、おそらく超大作なのであろうが、話のエッセンスをテンポ良く、かつ的確に選択してあり、2部、計3時間はあっという間に過ぎていった。

14年の地下牢生活というのは、想像するに余りあるトラウマを彼に植え付けたことであろう。生への渇望と絶望。終わりの見えない辛い日常をただ待ち続ける日々。しかし、復讐という暗い灯火を唯一の希望の光として主人公は絶望を退けてきた。そして出獄後10年の歳月をかけて復讐の時を待った。かつての愛する婚約者は、主人公を陥れた人間と結婚しその息子は結婚を控えていた。主人公は彼の命を狙うが、元婚約者の母に懇願され、許しを与える。主人公の復讐により地位や財産を失ったものの命だけは残された、絶望する母と息子達に主人公は言う。「待て、希望せよ」と。

終わりの見えない日常を待つということは辛いものである。しかし、人生においては待たなければならない時があると思う。今の僕は正にその時だと思っている。人生は決して順風満帆ではなく、足踏みを諾として受け入れなければならない時があるだろう。

件の老朋友は中国の著明な作曲家である。彼の肩書きには「国家一級作曲家」という称号が踊っている。中国では日本と違い音楽家も国家公務員として国の重要な任務を担っている。昨今では経済の自由化で予算を削られ苦労しているようであるが、それでも、重要な国家プロジェクトの典礼曲などの創作を通じて、国威称揚の一翼を担っている。それが純粋芸術としていかがなものかという議論はここでは省くが、類希なる才能と地位を獲得した彼の人生も順風満帆ではなかった。

八路軍の軍楽隊団員として戦地を転戦し、中華人民共和国建国後も音楽家として国家に国民に音楽を通じて貢献してきた彼は、しかし、1960年代の文化大革命で一夜にして謂われなき犯罪者として排斥されることとなる。紅衛兵の目を逃れるために、深夜、夫人と共に重要な古典文書を残らず焼いたこともあったという。何人もの仲間達が拷問の末に命を奪われたが、彼と夫人は重用されていた同志周恩来により中南海(中国共産党本部)の建物に匿われ難を逃れたのだと言う。

その苦痛と苦悩は、とても僕のような者が想像できる類のものではないが、その想像に余りある苦労を乗り越えた彼と計らずもこうして知己を得たことに、人生の面白味と凄みを感じる。

彼が何を希望の灯火にして生き抜いてきたのかはわからない。ただ、復讐でなかった事だけは確かであろう。もしかすると、自らの芸術を自らの希望の灯火としていたのかもしれない。柔和な物腰と裏腹に、妥協を許さないその姿には、生き抜いたものだけが持つ強さと優しさがある。彼の口癖である「浪費してはいけません!」という言葉は、彼が「待ち」の時間を経ているからこそ出てくるのであろうか?彼の人生にとって「待ち」の時間は、やはり浪費だったのだろうか。

今年はどうも猛暑の様相を見せている。何もする気が起きない僕は、山の農場から車で15分程度の近場の渓流に来ていた。渓流を抜ける風はすこぶる涼しく、一瞬にして汗ばんだTシャツを乾かした。 木陰の岩場に腰を降ろし、素足を川の水に遊ばせた。水は足が痺れるほど冷たく、僕は一人夢想しながらその午後を過ごした。

「待ち」の時間を過ごしている僕は、その一瞬を、例え様のないほどの豊かさとして認識した。しかし、果たして僕の「待ち」は、僕の人生の浪費になるだろうか。それはきっと、この先僕が生き延びなければ知ることはできないだろう。そして僕は今、生き延びようという希望の灯火だけは点している。

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