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サイエンス・デザイナーDr.KINOKOYAのAcademic Tips

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Diary | 遅かった

昨夜の心地よい喧騒が残る体を起こし、思うところあって車を南に走らせた。西中洲のホテルから下道を南へ1時間ほど走ると、そこには懐かしい田園風景が広がる。取り立てて名物があるわけではない、福岡県南部の農村地帯。道路が拡幅されていて、記憶と異なる辻に止まり周りを注視すると、数戸の賃貸町営住宅らしき一角があるものの、その細い道は確かに記憶の道と一致していた。

恐る恐る車を進入させると、ほどなくして確かにそこに母方の祖父の家はあった。

屋敷内に車を入れることは止めて道端に車を止めて深く深呼吸をする。

玄関の前に立ち、色褪せた表札を眺めると、忘れていた叔父の名前が蘇ってきた。憲一郎。確かに、叔父の名前は憲一郎だった。ふと納屋の方に目をやるとそこには年老いた夫妻と中年の女が出荷するネギを揃えていた。

「ご無沙汰しています」と声をかけると、3人はきょとんとした顔をしている。

「〇〇(私の名前)です」

異邦人を見るかのような15秒ほどの間が空いて、ようやく得心したようだった。

私は、沈黙に耐えられず単刀直入に聞いた。「じいちゃんと、ばあちゃんは?」。祖母は2年前の夏に、祖父は5年前の秋に、それぞれ95歳で亡くなっていた。いや、薄々覚悟はしていたのだ。まさか生きているはずがない、と。しかし、人間の思考とは不思議なもんで、客観的判断とは裏腹に、その判断をどこがで否定し続ける自分もいた。私は焼香を願い出、その煌びやかな仏壇の前にゆっくりと正座した。遅く立ち上る線香の煙を眺めながら、眼鏡の奥がゆがんでいくのがわかった。

「遅かったか」と呟いた。

私にとって、祖父母とは母方の祖父母を指す。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていたし、父方の親戚とは幼い頃はあまり頻繁に行き来しなかったからだ。だから、私の祖父母の原型は、まさしくこの田園の農家で形作られた。茶を差し出した叔母と話をしていて、最後にこの家に足を踏み入れたのは、叔母の長男である従兄弟が結婚した平成3年以来であることが解った。

あれから、15年。当時、まだ私は27歳だったわけだ。

私は、車に学位記を取りに戻り、博士号を取ったので祖父母に見せようと思って寄ったのだ、ともっともらしい理由を述べながら叔母にそれを見せた。いや、嘘ではないが、それが全ての理由ではない。照れ隠しのように「母ちゃんはたまには来よると?」と目を逸らして聞いてみた。実は、風の噂で、私の母が実家に戻っているということを数年前に聞いていたのだ。しかし、この雰囲気ではここに彼女の姿は無さそうであった。叔母は、「盆正月には来るよ。幸せに暮らしようよ」と答えた。その言葉のニュアンスで、恐らくは母が再婚したことを私は悟った。

あれはいつのことだろうか?もしかすると、すでに10年は経っているのかもしれない。当時、数年ぶりに母に掛けた電話で、何故だか口論になってしまい。以来、母も私も一切連絡をとっていない。

私の両親は、私が中学3年の時に別居し、1年後に正式に離婚した。私は母に引き取られ、弟は父に引き取られた。以来、大学卒業するまでの10年間、私は母と暮らした。と言っても、大学4年間は東京で下宿暮らしであったし、里帰りも4年間で2回しかしていないので、所属が10年と言った方が良いだろうか。そして、卒業と同時にあるきっかけから父の仕事を手伝うことになり、何故か、いや理由は自分でわかっているのだが、母とほとんど連絡をとることがなくなっていた。その緊張状態を解くために掛けた電話で母と口論になり、それからさらに10年が過ぎたのだった。

その10年の間に祖父母が亡くなっていた。

私には密かに母に会うための条件を自分に課していた。というよりも、それまでの父と母の関係から、どうしてもそれを解決しないと母の前に顔を出す気になれなかったのだ。それは、他人からすれば、いや恐らくは母からすれば拘る必要のない事柄に過ぎないのだろうが、私にはそれが条件のような気がしていた。いや、もしかしたら、それを口実に直面することを回避していたのかもしれない。

仕事の手を止めて叔父が座敷に上がってきた。聞くとすでに73歳になっていた。私が、夏休みにこの家に泊まりに来て、祖父母と寝ていたのは今から30年以上前である。祖父がもし生きていれば、ちょうど今100歳。だから、今、目の前に居る叔父ぐらいの歳柄だったわけだ。30年の歳月が流れたものの、私の感情は、10歳のそれのように幼かった。せめて、生前にもう一度会っておけばよかった。いや、棺に眠るその顔に一言「サヨナラ」を言いたかった。しかし、それも今は後の祭りである。己に課した些細な条件が取り戻せない現実を今私に見せていた。

私はよく人に「条件思考を停止しろ」と言っている。「〇〇ができなければ、△△できない」。例えば、「勉強しないと、オヤツあげないわよ」とか、「お金がないと、幸せになれない」とか、「あの機械がないと、この作業ができない」など。それはしつけと呼ばれたり、言い訳と呼ばれたりする類のものだが、私は、この思考に潜む、無責任と逃避を責めているのだ。

が、しかし、そのセリフを吐く当人が、誰よりも条件思考に囚われている。いや、囚われているからこそ、その囚われから抜け出せないからこそ、それが明確に見えているのかもしれないが、言う資格なしである。

じゃ、やめれば?と思ったそこの貴方。貴方は正しい。しかし、残念ながら、私には、その囚われから、当分は抜け出せそうにありません。勘弁してください。昨日、離婚について書いた。私は、離婚を否定するものではない。ただし、善き離婚と悪しき離婚があることは知っていた方が良い。私の両親の離婚は、選択としては正しかった。ただ、そのあり方において、いくつかの悲しみを未だに私に課している。いや、それは両親のせいではないのだ、私のこのいびつな性格のせいである。


私は、そそくさと叔父の前を辞し、墓の場所を聞いた。畑の中に立つその墓石は、雨上がりの曇り空の中でひっそりと立っていた。

またいつか、こっそりとやって来ます。じいちゃん、ばあちゃん。

f:id:kinokoya:20060831022934j:image

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