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Essay | ワタシの入れ物

心が壊れそうな時がある。訳もなく涙が頬を伝い、どうしようもなく自分が拡散、落下していく様が眼前に広がるような感覚。言葉は千路に乱れ、無意識からとげとげしい悪意が沸き起こる。優しいはずの自分の中に見出す、御しがたいタナトス。

精神分析学の自我構造論は、人の心を欲動(エス)・自我(イド=エゴ)・超自我(スーパーエゴ)の3階層構造を提出している。ひたすら貪欲に自己の肥大を求める欲動を、社会的価値観の内在化である超自我が監視し、その調停役として人格の前面に出てくるのが自我である。それは、いわば地球と月の引力が相殺される地点、ラグランジュポイントのように、微妙なバランスの上に成り立っている。少しでも位置がずれれば、たちまち地球や月の引力に引き寄せられ落下する。

この自我の安定感の獲得過程こそ発達に他ならない。安定感の獲得はすなわち人格の再現性を高め、対象世界、かかわる人やかかわる環境との相互作用の生産性を高める。

私の敬愛する人物に福大工学部のN教授がいる。彼は人材の交流に対して面白い意見を持っている。一般に人との出会いは足し算であると考えられている。たくさんの出会いがあれば、それだけ人は影響を受けて潜在能力が上がると信じられている所がある。だからこそ、名刺交換会や人材交流が声高に叫ばれているのだ。しかし、彼はここに落とし穴があるという。実際のところ、人との出会いは掛け算であると。

こういうことである。半人前どうしが交流をする場合、足し算であれば、0.5+0.5=1で交流の意味はある。しかし、掛け算であった場合はどうか。0.5×0.5=0.25で、もともとのポテンシャルより下がるのである。つまり、半人前がいくら沢山あつまったところで、その関係性に生産性は生まれない。だから、交流を声高に叫ぶのではなく、まず自分のポテンシャルを少なくとも1以上にすることが大事だと彼は言うのである。

ところが、ここに面白い現象が起こる。少なくとも、1以上、2とか3人前の実力を持った人間のところには、求めずとも人が集まるのである。積極的に交流を企画しなくても、その人の周りには磁石が引き合うように人が集まってくるのである。すなわち、人材交流無用論である。これは、あくまでもメタファーではあるのだが、自らの経験に照らし合わせてみれば似たような現象に気付くことが多い。実力のある人物には自ずと実力のある人物が集まり、交流の輪は自然に広がっていく。一方、実力のない人間は次第に孤立して行く。

この人材交流の理屈は、その人の持つ知識や人間性に対するものであるが、これを、敷衍すればこのベースを作るものこそ、自我の健全な発達にあるのではないかと思うのである。知識の獲得や人間性の練磨は安定した自我があって初めて人格の上に立ち上がる。

私の友人に過食嘔吐を繰り返す心身症患者がいる。彼女は主治医に、あなたの心はガラス細工のようだ。ピュアではあるが壊れやすい、と言われたそうである。透明な心は対象世界、会う人や環境を素直に心の中に取り込む。そのガラスの器のつくりが繊細で丁寧であればあるほど、外界の事物は屈折することなく入り込んでくる。しかし、それは同時に社会の汚濁をも等しく心の中に透過させる。彼女は、その生来の頑張りと向上心で非常に優れた尊敬すべき女性である。しかし、彼女の身体にもたらされたものは、過食嘔吐という辛い病であった。

彼女はそんな自分を強くするイメージをより堅牢なガラスで覆うことと語った。しかし、私の思うところ、その比喩はやはりいずれの時にか破損を免れないイメージである。力でもって力に対抗するといずれ力によって凌駕されることを運命付けられている。むしろ僕は素材そのものを問い直す必要があるのではないのかと思う。

ワタシの心の入れ物。それは、力強くかつ融通無碍であり、かつ素朴であるべきではないかと思う。それは例えば麻袋のようなものではないだろうか。自由自在に形を変え、しかし風通しがよく内容物を選ばない。外界を無自覚に通すことはなく、自ずと内容物を選択する。

素敵だなと思う人々に共通するもの。それは僕にとっては、フレキシブルな精神と謙虚な姿勢、しかし、オリジナリティを失わない人格を持っている人である。時に厳しく、しかし根底に優しさをたたえている。これはつまり、安定した自我構造を保持していることに他ならない。

心が壊れそうな時、人は肩に力が入る。壊れそうなココロの断片を必死で自分の手の中に納めようとする。そういう時、僕はこうしてみる。缶ビールを一つ携えて、球磨川の河川敷に行く。ただただ流れる球磨川の水にココロの麻袋を浸してみる。清らかな水は、麻を通してココロの中に入り込み、澱んだものごとを少しづつ洗い流してくれる。

そこで、美空ひばりの「川の流れのように」でも歌って、涙の一筋でも流すと、昔のレーザーカラオケのワンシーンのようになって、あまりにも陳腐なので、それだけはしないことにしている。

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