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Diary | 形式的自立は誰にも適用できるか?

 12日のブログに日垣隆の著作を引用して「形式的自立」の話を書いた。

http://d.hatena.ne.jp/kinokoya/20070112

 その趣旨は、「子育てのMinimum Requirementは、形式的自立、すなわち、親を必要としなくなるようにすることである。自立には、内面的自立と形式的自立があるが、親が、子の内面的自立を「認定」することは難しく、理不尽なことになりかねない。だから、客観的に判定可能な、形式的自立を目標とすべし」ということである。

 しかし、これを書きながら私は、「果たして、全ての人にこれは適用可能な話だろうか?」という疑問が少しだけあった。というのも、友人の子どもに先天的な知的障害を持った子どもがいるからだ。「果たして、友人の子どもを形式的に自立させるなんてことができるのだろうか?」と。そもそも「形式的自立」が要請される理由は一体何なのだろうか?

 今日は眠いので、あまり長い話を書く気力がないから、結論を先取りして言えば、「形式的自立」がそもそも要請されるのは、統計的に考えて、「親は子どもより確実に先に死ぬ」という事実である。もちろん例外はある。しかし、親より先に死ぬ子どもは圧倒的に少ないのだ。そういう点から考えると、どのような子どもであっても、やはり形式的自立は、早晩やってくる事態なのである。もちろん、健常者の子どもとは、発達速度、発達程度も違うので、同列に並べた議論はできないだろうが、それでも、いや障害があるからこそ、子どもの形式的自立という課題は最も深刻かつ根源的な課題であると思う。

 そこで、さらに新たな疑問が沸く。発達障害を持つ子どもに、そもそも自立した生活などできるのか、と。学校を卒業した後、自分で履歴書を書いて、企業に就職活動をして、試験と面接を潜り抜けて就職し、同僚たちと健全なコミュニケーションをして、やがて、恋愛して結婚し、子どもを産み育てて親になることができるのか。無理だ、どう考えたって無理だ。そんな自立した暮らしは、知的障害を持つ子どもには無理だ。やはり、いつまでも赤子を育てるように、ご飯を食べさせ、服を着せ、転ばないように足元を注視しながら、常に身の回りの世話をし続けないといけない。「私」が死んだらどうなるのだろう。とても生活できない。少なくとも、子どもが天寿を全うする、130歳まで生きなけりゃ。よし、今日から、アガリクスを飲もう!(笑)

 てなことは、とうてい無理である。いや、アガリクスは飲んだほうがいいけれど。

 しかし、ではどうすれば・・・。

 上記の議論には、実は、落とし穴が潜んでいる。そもそも自立とは、とりわけ、障害者の自立とは、健常者の自立と同じでなければならないのか?いや、健常者であろうと、絵に描いたような、「ザ・自立!」があるのだろうか。そんなものはない。それこそが「内面的自立」の落とし穴に嵌るアダルト・チルドレン的親である。知的障害があろうがなかろうが、子どもの自立は千差万別である。

 私は、いちおう百姓のはしくれだと思っている。そんな私が農業の世界にクビを突っ込んで感じたこと、それは、子育て、あるいは教育は、米を育てるのと同じ感覚が必要であるなということである。どのような作物でもそうだが、手厚く保護すれば作物は立派に育つというものではない。肥料をたらふく食わせれば、作物は枯れてしまう。適度に保護し、適度に突き放す。さらに言えば、作物に対して百姓ができることは、花をつけ、実がなるように、環境整備をするだけである。例えば百姓は、「米を作る」とは言わない。「田んぼを作る」と言う。「米は稲が作るものだ」と。百姓は、ただ、稲が育ちやすいように、田んぼを整備し、肥料を撒く、ただそれだけだ。一旦、稲を植えてしまえば、嵐が来るか、日照が来るか、それは運次第である。

 そして1本1本植えられた、苗は、一つ一つが個性的である。微妙だが、しかし、大きな差がある。子どもも同じである。食の細い子、大ぐらいの子。すぐに熱を出す子、丈夫な子。それを拡張していけば、発達障害がある子どもも、同じ土俵に乗っていく。食の細い子に「全国の小学1年生の調査では、1日平均1200カロリー食べ」るのだから、アンタももっと食いなさい、と無理やり食べさせても理不尽な話だ。そのぐらいは誰にだってわかるだろう。

 ところが、これと同じことをやっている世界がある。育児の世界だ。「右のおっぱいを5分吸ったら、左を5分」とか、「生後1ヶ月で1kg増えていないから、おっぱいの飲み方が足りないわね。」などと、ご丁寧に平均体重グラフまで出して、わが子の肉体偏差値を指摘してくれる。右5分に左5分ってなんだそりゃ?薬理実験のネズミか?また、ご丁寧にお母さんは、いつも時計とにらめっこしながら、授乳時間を気にしている。赤ちゃんは断じてマシンではない。飲みたくなくなったら、自分で飲むのをやめる。自立した生き物なのだ。作物だってそうだ、プロの農家は、作物の「顔色」を伺って、水が飲みたいか、ご飯が食べたいかを時々刻々サーチしているのだ。ましてや赤ちゃんにマニュアルどおりに乳を与えてどうする?

 話が大きく逸れてしまった。自立である。

 自立の様態においても、それはこどもそれぞれによって千差万別だということだ。典型的な自立ステップ、あるいは典型的な自立アイテムが揃わなければ、自立できていないということではないのだ。

 話を障害児に戻そう。障害児には、確かに、自分で履歴書を書いて、会社周りができない子どももいるだろう。例えば、難病で一生床に伏せている場合もあるだろう。それでも、私はなお、苦しいかもしれないが親には「形式的自立」を求める。それは、健常者の子どもに対する意味での自立ではなく、「親がいなくても生きていける状況」を作れということだ。解答は無数にあるだろう。身近なコミュニティに委ねる、親戚に、あるいは下の子どもたちに委ねる。施設に委ねる、公的な機関に委ねる。それは、厄介払いをしろと言っているのではない。どのような状態であれ、いずれ先に死ぬ公算が高い親が抱え込むことには、ある種の悲劇が潜む。手を離れれば、場合によっては悪意に晒されることもあるかもしれない。しかし、親の理不尽に晒されることなく、豊かな暮らしを得ることだって十二分に期待できる。願わくば、まさに、百姓が田んぼを作るように、あなたの子どもが、すくすくと「自立して(親の手を離れて)」暮らすことができる、環境の整備に力を出してみてはどうだろうか。それが「形式的自立」の本質ではないだろうか。

 

 

 

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