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サイエンス・デザイナーDr.KINOKOYAのAcademic Tips

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Essay | 不倫する女

女性読者には申し訳ないが(てか、読者意識すんなよw)不倫する女って一体どうなんだ?コレ読んでいる人で不倫したことあるひとありますか?

ある友達の独身女性の話。

現在不倫中らしい。相手の男は年下でやり手の研究者らしい。結婚して10年ぐらい経つのかな?子供もすでに小学生ぐらいかな?んで、ある機会に独身という触れ込みで会い、親しくなってみたら、妻帯者と告白されたそうな。それでも、「大事にするから」と言われ、付き合うことになったらしい。奥さんとは何年もセックスをしていないとも言っているという。

んなわけねーだろ!?と、結婚歴のない俺はツッコむのだが。

寂しさが紛れればいいってことか?まさか、マジでその言葉を信じているドキュソか?まぁ、不倫の果てに結ばれるっつーのも、ないわけではないが、確率論的に言ってすくねーだろ?というより、自分がもし相手の奥さんの立場だったらどうすんの?二人だけの時がラブラブだったら、周りは見えないって?奥さんの影に怯えながら、コソコソと会って何が楽しいのかね?俺なんか毎日裏通り歩いているカンジだからさ、せめて恋愛ぐらい表通りを歩きたいって思うんだけど。なんか、友達辞めたくなってきたよ。俺が固すぎるのかね?あー、マジうぜえ。


拙者、不倫している女に二股かけられたことありますから・・・切腹!!

俺には女がわからん!(涙)やっぱ結婚はむりだわ。大人しく仕事と善き人々の幸福に一生を捧げよう。

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Essay | 1122だ!

で、別れは突然やってくる。今日久しぶりに友達の女の子からメール。「本日、入籍してきました!1122(いい夫婦)にちなんで(笑)」だそうな。いや、別に付き合っていたわけじゃありませんので、別れっていうのもおかしな話ですが。

このコとは不思議な出会いだった。大阪に出張した時に取引先の接待で初めて入ったキタの新地のクラブで僕は彼女と出合った。一瞥した瞬間、好みの容貌であったことは確かだが、残念ながら名刺を貰っただけで、こちらの名刺を渡すことも無く、ましてや挨拶以外の会話をすることも無くその日は終わった。出張から帰り名刺を整理していると、このコの名刺にはメールアドレスが記載されていた。その当時、まだまだメールは一般化しておらず、メールアドレスの入った名詞を貰うのも初めてだったので、挨拶程度にお礼のメールをした。ここまでは、通り一遍のご挨拶であった。ところが、このクラブは、毎月会報のようなものを発行しており、在籍する女性の日記ともエッセイともつかぬ文章を紹介がてら掲載してあった。それはインターネットでも公開してあり、暇に任せて僕は彼女の文章に目を通して、彼女の文才に感動したのだ。インスパイアされたというのが一番しっくりするかもしれない。そこで俄然興味が沸いたのかもしれない。一言で言えば、彼女の文章は異彩。他の女の子たちが「こんちわぁ~」あたりの書き出しで始まるのに対し、

《飽きを感じる時の貴方へ》海月と泳いでいる夢を見て目が覚めた。昨日のお酒がまだ抜けきれていない。仕事の話を肴にみんなと飲んでいた。意見もしたが思うように話が出来なかった。そして何処からだか記憶が曖昧である。ベットから立ち上がると体が火照りだし、血圧が上がる。肉体的感触と精神的感情とが変に混ざり合ったものが五官を通じてそれを私に伝え、夢の中ではなく現実の場所にいる事を確認させた。窓から降り注ぐ光を浴びながら「生命とは人々の幸福のために天から下った光の伝播である。」と孔子の言葉を口ずさみ、一日のスタートに踏み切った。

これだ(笑)。孔子の言葉を口ずさみ、と来た。これは別に、文芸雑誌のコラム欄ではない。悪く言えば、飲み屋のおねーちゃんを紹介するPR誌での日記なのだ。一体何物?と誰しも思わざるを得ないだろう。こうして、間歇的ではあるが、不思議なメールのやり取りをすることになる。

彼女のプライベートは朧気ながら分かるものの、せいぜい、店を辞めただの、新しい仕事し始めただのという表層的なやり取りだけで、一向に本質に触れることはなかった。それでも、毎月掲載される彼女の文章をネットで読んでは、時折メールで感想を送るという関係が続いていた。いつしか彼女は僕をお兄ちゃんと呼び、僕は彼女を妹と呼ぶようになっていた。ほのかな恋心とも親心ともつかない不思議な空気が流れていた。その店を訪れたのは、2000年の4月であるので、もう4年半が経過していた。

その彼女から今日入籍のメールを貰ったのだ。受け取った瞬間、不思議な感慨とともに、一つの終りと始まりを予感した。一体どんなメールのやり取りをしたのだっけ?と過去のメールを読み返してみた。まだ間もない頃のメールには次のように書いてあった。

凡そ飲み屋のPR紙への投稿とは思えぬ(失礼)貴女の小文は、暇つぶしに入った名画座で偶然出会ってしまった佳作に涙してしまったかのような気分を覚えました。美しき病床の幼なじみとの約束はその後どうなりましたか?少し気になります。

先日、弊社が後援した講演会で、精神神経薬理の教授が講演の冒頭こう切り出しました。「我々は死を約束して生れてくる」。死が不可避である事は自明の理ですが、ともすれば受動的死を「約束」という能動に切返したこの台詞の迫力に、暫し二の句が告げられない思いでした。

最近「しあわせ」ということを良く考えます。僕はしあわせだろうか?君はしあわせだろうか?と。しかし、司馬遼太郎の歴史小説の中である表現に出会い、この問いには落とし穴がある事に気付きました。「仕合せ」。「幸せ」ではなく「仕合せ」。

ここからは僕の勝手な想像ですが、元来、日本には幸福という概念はなかったのではないか。日本人のシアワセとは、正に仕合せではなかったのではないか。

大辞林によれば、仕合せとは、(1)めぐりあわせがよい・こと(さま)。幸運。幸福。「友人の―を祈る」「―な生涯」(2)めぐりあわせ。運命。「我はそも、何時ぞやも言ふ如く、―も悪ければ/仮名草子・竹斎」(3)ことの次第。始末。「無念ながらも長らへて、さて只今の―なり/浄瑠璃・出世景清」とあります。

めぐりあわせ。それは極めて偶然性の支配する事象に他ならず、自意識から最も遠い境涯です。僕のイメージでは、仕立て合わせ、着物の襟の収まり具合がしっくりと行く状態が思い浮かびます。つまり、自意識の埒外にあって、たまたま上手く納まること。それを、極めて受動的に享受する心理状態、それを日本人は仕合せと表現したのではないのか。

とするならば、仕合せは局地的、一回性のものであり、しかも、容易に代替可能な境地である可能性がでてきます。しかしながら、「僕はシアワセだろうか?」という問いには、排他的、絶対的な幸福の境地の想定が想像されます。僕の問うた自問は、構造的に破綻していた可能性が示唆されるのです。

幸せは、いつかどこかで自ら手に入れるものではなく、今、ここで、たまたま出会えた事そのものが仕合せである。そう最近思えるようになり、なんとなく肩の荷が下りたような気分がします。

われわれは、受動的死に苦しみ、能動的幸せに苦しんでいます。所与の自明と見える観念に知らず知らず縛られているようです。しかし、それはまた、容易に交替可能な苦しみなのかもしれません。

白隠禅師は、禅の境地を「へつらわざるなり」と説明したそうです。「こだわっちゃダメ!」。一見無責任なこの発言は、しかしながら、能動と受動、善と悪の二項対立を融解し、自意識という囚われを解体した後に立ち現れた時、重くかつ軽やかな癒しを与えてくれそうな気がします。

宗教学を修めた貴女に禅の話とは、厚顔無恥も甚だしい事ですが、ふと見つけた貴方の小文に触発されて書かされたこの小文も、それはそれで仕合せなことなのかもしれません。

このような、関係性のつながりこそ、間主観性と呼ばれるものかもしれません。

ちょっと、文章に感動したので、なんか自分も書きたくなったのね。お目汚し失礼しました。それではお元気で。

彼女との出会いは、正に「仕合せ」だったのかもしれない。彼女の未来を素直に祝福する。

仕合せな兄より

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Essay | 待てますか?

テレビのドキュメンタリーで引きこもりの青年の話をやっていた。

覚えている人いるかなぁ?昔、日本テレビのバラエティで電波少年ってのがあったのを。あのコーナーでカンボジアに舗装道路を作るって話があったのを。そこの出演者でハンサムって渾名の男の子がいたことを。当時彼は引きこもっていて、その生活を変えたいってことで参加したらしい。んで、番組終了後もカンボジアに係っていて、貯めたお金でカンボジアに学校作ったり、干ばつか何かで食べ物に困っている人たちにお米を送ったりしたらしい。

それはそれでいいんだけど、面白かったのは、彼の家族との話し方。両親にも姉にも、みんなに敬語使ってるの。

わかるなぁその感覚。ちょっと違うかもしれないけど、俺も未だに両親を上手く呼べない。まぁ母親とはいろいろあって10年以上顔を合わせていないのだが、父親である社長とは、毎日顔を合わせている。でも、なんちゅーか「お父さん」とか「オヤジ」とか、ましてや「パパ」とも呼べない(笑)。幸いに社長であるので「社長」で通している。なんで?って言われると俺も答えに窮するのだが、なんかしっくり来ないんだよね。何かわだかまりというか、恥ずかしさというか、距離感があるんだと思う。

で、その引きこもり青年。その敬語の件について、「(敬語を使うことによって)お互いに、一人の人間として見られるようになった」と述べていた。つまり彼は、家族に敬語を使うことによって、個としての自立を成し遂げたかっただろう。青年にとって重要な発達課題である、自立を誰よりも彼は意識していたのだろう。方法としてはすこしいびつな方法ではあるが。

番組から5年。彼は、カンボジアからの帰途、本屋へ寄る。手にした雑誌には彼が撮りためた写真がグラビアページに掲載されていた。署名入りで。彼は写真家としてデビューしていたのだ。彼は姉を伴って実家へ帰り、誇らしげな素振りも見せず、それを両親に示した。

それ以降、彼はいびつな敬語を使うことなく、普通の青年が話すように話すようになったと姉は言う。5年の放浪を経て、彼は恐らくある種の自立への手がかりを掴んだのだろう。それが彼のいびつなこだわりを捨てさせ、「普通の」コミュニケーションへと変容させたのであろう。

姉を苗字に「サン」づけで呼んでいる時、姉は弟のことをこう評した。「確かに友達からは私の弟がヘンだと言われたりします。でも、それが私にとっての「普通の」弟なのだから」。姉は、その弟の行為を咎めることなく、ありのままの弟を受け入れ続けた。

姉も両親も彼を待っていた。いや正確には、待ってはいなかったのかもしれない。ただその都度その都度の彼を、弟として、息子としてありのまままに接してきただけかもしれない。そうして時は過ぎ、いつのまにか彼は、一般で言うところの普通の青年に成長したのだ。

別に普通になるのがいいとは思わない。ただ、本人が希求したであろう自立というテーマに対するプロセスにおいて、一般とは異なったルートを辿った彼に対して、異を唱えることなく、ありのままを受け入れ、彼の成長を信じて待った。

もしアナタの大切な人が、アナタの思い描くレールとは外れてしまったとき、そのありのままを受け入れられますか?もしも、その人が、どこかへ向かっていると感じたとき、その方向やスピードが、アナタの思い描くそれと違っていても、それを受け入れて、その歩みにあわせて待って上げられますか?

人は変わる生き物だ。良い方に成長することもあろうし、悪い方向に堕落していくこともあるかもしれない。ただ、どんな方向に進もうとも、根っこの部分でその人を信頼し、待つことが出来るか。これって意外と難しいと思いませんか?出来の悪い息子や、物分りの悪い彼氏を前にして、一人怒りや焦りに打ち震えたことはありませんか?でもね、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから待ってあげてください。結果はアナタの思いどおりにならないかもしれませんけど、彼なりの考え方で最善の方向を選択するはずなのです。

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Essay | オマエにわかるのか?っつーの!

で、思い出した。評価の話だ。

大学に入学して僕はモダンジャズ研究会ってヤツに入った。入学までに3年ほど寄り道させていただきましたので(笑)、同級生には年下が多い。んで、現役で入った先輩には、同じ歳ってのが結構いる。まぁ、僕の行った大学は、1浪、2浪はおろか、3浪、4浪、5浪とかいたので(笑)、年齢なんか気にしてられないのだが。

んで、ある時演奏会か何かの打ち上げで、3年生のテナーサックスの幹事長の横に座った。佐野さんというその幹事長は、生年は同じなので同じ歳ではあるのだが、大学では、僕は1年生で、彼は3年生であるので、当然敬語で話す。そこに問題も違和感もないのだが、話をしている中で「佐野さんのテナーかっこいいっすよねぇ~」と僕が先輩を誉めたことがある。何気ない会話であるが、その時佐野さんはこう言った。「後輩が、先輩を誉めるものではない。10年早い」と。一瞬僕は、何を言っているのかわからなかったが、後に痛く感心した。要するに、評価のモノサシを持っていない者が、他人を評価するという行為が不遜で失礼であるということだ。ヒヨッコのオマエに何がわかる?ということだ。

これは今でも僕の心に深く刻まれているし、常に年配者に会う時は気にしている。年配者だけではない。年下でも、僕が意見を言える立場ではない領域の人=尊敬できる人に会う時は、この点に気を使っているつもりだ。

これって、見方によっては旧態依然とした封建的な思想のように思う人もいるかもしれない。確かにそういう部分もあるかもしれない。まぁ体育会系のノリに近いかもしれない。でも、最近思うのだが、こういう発想って大事だと思うのだ。人権教育だか平和教育だかなんだかしらんが、妙に社会が均質化している。パパやママは物分りがよくなりすぎて、お子様が増えている。失礼な物言いや、傲慢な態度に気づかずに、アチコチで不快な空気を垂れ流している輩が増えている。己のモノサシが小さなものであるという自覚もなしに、というより全て世の中が同じモノサシで図れるものという前提で周りを見すぎている。

書いたかもしれないけど、ようやく1本目の論文が出来上がった。尊敬する先生に何度か見てもらったのだが、そこでも同じようなセリフを貰った。「一番いけないは、実力の無い者が満足出来るまで投稿は出来ない、なんてことです」。実力のない人間が、自分のモノサシで満足行くまで論文をこねくり回したところで、そのモノサシでの満足など、所詮社会に出た場合=投稿した場合、世間を満足させられるものではないということだ。さらに、満足などに到底及ばないということだ。ここにも、モノサシに対する洞察が見え隠れする。個人としての満足や興味というものも動機の形成や自己信頼の向上などで意味がないわけではない。しかし、行為のゴールは、それが社会関係において意味があるのかどうか、ということだ。所詮、個人の満足なんてものは、オナニー以外の何物でもない。それを自覚しないと、意味のない名刺を自慢するだけの、害悪にしかならない人間になってしまう。いたずらに他人の貴重な時間を浪費させ、場合に寄っては、不快な気分にさせることもあるのだ。

誉めれていれば、コミュニケーションが上手く行くのだ、みんな喜ぶものだ、とどこか軽く考えているところがある。僕もそうだった。しかし、誉めればいいってもんでもない。人間関係の文脈に対する、繊細で深い観察が問われなければならないと思う。それを大学時代に、同じ歳の先輩から僕は学んだ。このエピソードだけで、僕は、このサークルに居た意味があるというものだ。このエピソードの時点で、確かに佐野先輩と僕は、生物学的には同じ年齢ではあった。しかし、社会的年齢という意味においては、大人と子供ほどの開きがあったのだ。生物学的年齢が、唯一のモノサシではないということも、僕は同時に学んでいた。

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Essay | 掛け算

どっかのエッセイに埋もれているだろうけど・・・、掛け算で思い出した。

ある先生の自論なんだけど、人の出会いは掛け算だというものだ。どういうことかというと、よく名刺交換会とかさ、人材交流なんたらとかあるじゃん?あーいうの意味ないよねーという話。

いろんな人に会うことは意味のあることだ。人脈を広げることはいいことだ。と無前提に信じられているところあるよね?で、あれの根拠は、そういう交流が足し算だという前提に立っている。足し算だから、会った人数が多ければ、1+1=2 1+1+1=3という具合に、答えはいつも1より大きい。だから、沢山回数を重ねれば、より数字は大きくなる。数字が大きくなるということは、会うことによって利益=意味があったということだ。

ところが、これが掛け算だったらどうだろう?もし僕が、半人前のおこちゃまだったとしたら?それを仮に数字で表して、半人前=0.5としよう。んで、ある、1人前=1.0の人に会ったとしよう。0.5×1.0の結果は、0.5(笑)。最初が、1だったとすると、半分に減っている。んじゃ、ちょっと大物の、2人前ぐらいの先生に会ったらどうか?0.5×2.0=1.0。やっと、元に戻った。でも、これじゃ、2人前の先生は、自分の初期値より下回っているので、きっと面白くないよね。てか、教えてもらうばかりで、相手には利得はない。

これは、子供と大人、生徒と先生の関係だね。間に金銭か、何かで補填しないと、バランスが取れない。だから、人材交流によって双方に意味が生じる人ってのは、少なくとも1人前以上、1.1以上の人間でなければ、意味がないという結論になる。

ところが、人材交流が大事だ!とか言っている人間ってのは、大抵が、1人前以下の人間が多い。なんかエライ人の名刺を持ち出して自慢するのが関の山。だからなんなんだ?っつーの。その名刺の人は、確かにエライ人かもしれない。きっと、会うと面白いんだろうね。勉強にもなると思う。会ってみたいなとも思う。だからといって、じゃ、アンタとは関係ないでしょ?じゃ、アンタその人を紹介してよ~と頼んでも、大抵は「いや、親しくないので・・・」と腰が引ける。

じゃ何?キミにとってその人との交流ってのは、その名刺をボクに自慢できるって意味しかないわけ?アホくさ!

んでね、もっと面白いのは、例えば2人前以上の実力をつけたとするじゃない?そうすっと、求めなくても、人って寄ってくるのね。だから、わざわざ求めて交流する必要ないわけ。求めなくても、うるさいくらい人が寄ってくる。

だから結局、人材交流会ってのは、1人前以下の人間が集まってくるだけの、負け犬の慰め合い以外の何物でもないっつーこと(笑)。

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Essay | 香織にハズレなし

香織という名前にはなぜか思い入れがある。ま、昔好きだった女の名前ってだけだけど。で、その印象が強いんだけど、他にも何人か、香織(漢字もこのままね)って女の子が知人に何人かいて、幸運にも、みんな美人である。で、ある時友達と話をしていて、「香織って名前の女には美人多いよなぁ。香織にハズレなし!(笑)」と、それぞれの記憶を背景に意気投合していた。と、それを横で聞いていたソイツの彼女が、「でも、私の知っている香織って女の子は、みんな性格悪かったですよ」と、反論した。彼氏が目の前で嬉々として別の女の話をしているから気分は悪かったのだろうが、ちょっとだけ、場の空気が澱んだ。

で、件の香織ちゃんの話だが、ある時飲みながら話をしていて、「ブスは性格が悪い!」という話をしだした。仕事で何かあったのだろうが。それがきっかけかどうかわからないが、それ以来、美人とブスの性格傾向を意識して見るようになった。まぁ、どこで美人とブスの線引きをするのか?というesthetique(美学的な)な議論はあるのだが。要するに個人的で恣意的な線引きしかないんだけどね。だから、僕が美人と思っている人を、他人が美人と思うかというとそうでもなかったり、その逆もあったりする。それはおいておいて・・・。

で、毎度の毎度の結論の先取りだんだけど、個人的な体験でモノを言うと、美人と話をするのは疲れないってことだ。それは、こちら側がやる気まんまんで(どのヤル気だ?(笑))、バイアスがかかっているからって言う人もいるだろうが、そうではなくて、ニュートラルに話ができるってことだ。さばさばしてるというか。変に気を使わなくていいというか。

言い古されたことであるが、こういうことである。美人に生まれた女の子は、小さいときから沢山の承認を得て育つ。それが自信になり、自分なりの個性を伸ばす方向にステップアップしていくのだが、ブスの場合は、承認が少ないことが多く、そこにある種のコンプレックスが生じるようだ。だから、何気ない発言に反応されたりして、面食らうことがある。こちらの意図なり、場の空気なりを読まずに、自分のコンプレックスに引っかかった部分に固執して、会話を捻じ曲げたり、空気をかき回したりする。そういう経験を積むと、こちらもバカではないので、そこを避けて会話を運ぶようになるのだが、これが意外と疲れるのだ。

まぁ、女性の視点でいうと、これこそが男の傲慢というか、女性蔑視の根っこだとかいうんだろうけどね。まぁ、そういう部分も多分にあるかもしれない。だから、男ってバカなのよ~、とか、今この文章を読んで、つぶやいている人もいるかもしれないね(笑)。

で、「香織は性格が悪い」とのたまった彼女は、正直、美人ではないな。てか、その発言以来、僕の中では空気の読めないバカというレッテルが貼られてしまった。それまでは、美人ではないけど、いい雰囲気の女性だなぁと思っていたんだけど。

ところで、でも、コンプレックス抱えた、「一見」美人って結構いるじゃん?と反論したくなったアナタ。ええ、アナタは正しいです。でもね、私の定義では、それはやっぱ美人には入らないのですね。逆にね、容姿にあまり恵まれていない女性の中にも素敵な人はたくさんおりますよ。ん?少しかな(笑)?

ま、この日記を読んでいるような、スマートでちょっとばかしマニアックなアナタは、決して「香織って名前の女は性格が悪い」なんて思うブスではないでしょうから心配ないでしょうけど。

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Essay | 言葉は届いてナンボ

実は、昨夜は決算書の作業の後、来週発送予定の商品に入れるキャンペーン用チラシの叩き台をイラレで作成した。んで、早速、首脳陣(つっても事務所にいる人間数人(笑))を集めてにわか営業会議。

僕の作ったたたき台は、必要最小限の言葉を入れただけのシンプルなもの。と、社長が「あれも言いたい、これも言いたい」と主張。社長には悪いが、はっきり言って顧客は長い文章なんか読みやしませんよ。言いたいことが沢山あるのはわかります。その気分を満足させて上げたいのは山々。でもね、このキャンペーンのゴールは、こちらのメッセージをお客様に的確に伝えること。説明不足があったとしても、最初から読んでくれないと意味ないでしょ?このチラシを開いてくれるかも、実は怪しいのにさ。

ここに、仕事と実存の乖離が見て取れる。ウチのようなモノづくり系の中小企業ってのは、「どーだ!すげーもの作ったド~」という、ある種の自信、僕にいわせれば自慢&自画自賛が強い。まぁ、それが、小さな会社を存続させる重要なファクターであることは認めるけど、しかし、それと顧客とのコミュニケーションは別。特にこういう紙媒体の場合、作り手の気迫とか自信というものは伝わりにくい。

会社、とりわけ社長のこだわりと実存欲求を満たしてやりたいという、仏心はかなり強い僕だが、しかし、その甘やかしが現在の苦境を招いているという側面も否めない。

つーわけで、社長案は2行だけ取り入れて、レッツゴーです。

ごめんね、社長。

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Essay | 人生やっぱバクチ?

朝から携帯に頻繁に電話がかかってきていて起こされた。見覚えのない電話番号なので、とりあえず相手を確認してから、と思って留守電を聞いたら、世話になっている大学の先生の病院のスタッフからだった。

なんでもOBの先生のお父様だかお母様が末期ガンだそうで。在庫が1個だけあったので送ることに。しかし、在庫が1個って、なんか売れに売れているみたいで聞こえはいいけど、あいかわらず資金繰りは最悪。来週には新しい製品が入庫するんだけどね。

で、はてなの質問で、「胃がんについての統計を知りたい」ってのがあって、僕も覗いてみた。がんセンターの部位別5年生存率を見てみたらびっくり。多重ガンでない患者(転移していないってことね)の5年生存率だけど、思ったより低くないんだよね。全てのガンで、女性は5割強、男性は4割強5年生存している。「早期発見が大事」って言われているけど、なるほどこういう裏付があるのね~。ま、逆に言うと、それでも約半分は死んでいるってことだけど。

http://www.ncc.go.jp/jp/statistics/

ただ、こういう統計には落とし穴っつーか、実際に患者になった場合には、あまり意味をなさない。仮に僕が胃がんになって、5年生存率が42%ですよ、と医者に言われたとしても、僕の右半身だけ生きているわけではない。約4割だから、当然股間も死んでるので、エッチもできないなぁ・・・。いや、そういうことではなくて(笑)、治療がうまくいけば、生きているだろうし、ダメであれば死んでいる。だから、本人にとっては、イチかバチかなんだよね。特に5割なんて言われると、結局、どうなるかわかりません!って言われているのと同じだよね。つまり、個人の実存の問題ってのは、統計≒平均値にはなじまない。

ま、数字に罪はないんだけどね。社会政策上は、やっぱ統計は必要だし。

同じように、幸せについても同じようなことが言えるような気がする。まぁ、生き死にの問題ほどバクチ色は消えるけど。例えば、年収1000万の彼氏を持つ女の子とプータローの彼氏を持つ女の子とでどっちが幸せかってのは比較できない。ま、これはイケメンorブサイクでもいいし、いろいろな対立概念でくくっていいんだけど。もちろん恋愛に限らず、今の境遇でも、なんでも良い。

ところが、この幸せってやつ。ついつい統計的感性というか、比較・平均的観点で解釈しがち。年収が多いと、なんとなく「人より」幸せな気がするし、美人の彼女を持ってたりすると、ついつい友達にも自慢げに連れて歩いたりして、幸せが増したような気がするし。

まぁ、そういうものが幸せというか、自己肯定感を増してくれることも確かではあるけれど。これって結構足元弱いよね。もっと年収の高い人間や、もっと美人の奥さんとかいたらどーするの?ってこと。ま、上を見ても下を見てもキリがないってことね。ま、普通は「このへんで」というある種の上限というか平均値を自分で設定するんだろうけど。それってやっぱ、何か諦めている感がある。

あー、書くのがだるくなってきた(笑)。

なんでこんなこと言い出したかというと、生死の瀬戸際に置かれたときに、アナタは何を残すかってことなのね。つか、人の目なんか気にしてる場合じゃないよね。そこに、きっと幸せの核があるんじゃないかな?ってことが言いたいのね。そんな時に、俺の年収はな~、とか、俺の彼女は元モデルで~、とかそんなこと多分誰も考えないと思うのよ。

もしその幸せを、実存として実感できたなら、欲を出さずに、きっと人はもっと幸せを実感できるだろうし、人に優しくなれるんじゃないかね?

でも、仮にガンになったらですね。これが結構金かかるんだよね~(笑)。知人の先生がやっている免疫療法なんか、3ヶ月で220万円かかるしね。というわけで、万が一の時のために保険には入っておいた方が良いと思いますよ。きのこやは、当然保険になんか入ってませんので、その時は泣いて過ごします(笑)。え?やっぱ貧乏は不幸せってオチなの?

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Essay | 千年の記憶

昨夜日帰りの予定だったのだけど、早起きが祟ったのか、すげー眠かったので結局お泊りに。んで、そのまま帰るも癪なので、久留米から大分方面に方角を変え、小国経由で帰ってきた。小国町は、以前仕事で何度も通ったんで、道は慣れてるしね。ちょうど紅葉の時期でもあるので。

んで、ちょうど杖立温泉を超えて、小国の街に入る前のところに、下城の大銀杏ってのがある。樹齢千年というその姿は、風雨に晒されたからなのか、一種異様な容貌を見せている。疲れたっていうかさ。

しかし、千年だよ。千年。ホントかウソかわからんけど、少なくとも数百年は生きているんだもんなぁ。

前回ここを訪れたのは、確か、2003年の6月だったかな?1年半前だね。その時は、平日だったし紅葉の季節でもなかったので、誰もいなかったけど、今回は車が15台ぐらいとまっていた。イチョウの葉は、黄色に色づき、半分ぐらいはすでに落ちていた。回りも紅葉がまっさかりらしく、一見華やかに色づいて見えるのだが、太陽の日差しが夏のそれとは違い、やや冷たく射しているからなのか、生命の生き生きとしたイメージよりも、人生の終盤を迎えつつある、ある種の悲しみを漂わせている。この景色を千年、彼女(なんとなく樹ってのは女性のような気がするんだけど)見て来たわけだなぁ。

日本は四季があるから美しいとはよく言われること。僕も四季があるから、日本は美しいと思う。特に、僕は10月生まれであるので、秋という季節は自分の季節のような気がしている。ただ、秋という季節は、やがて来る冬という時代を予期させて、ある種の前途への漠とした不安もかきたてたりする。

人生を四季に喩えたとするならば、人生の秋とは、人生80年の40~60に当るのだろうか。今、まさに僕は人生の秋を迎えたわけだ。

実りの秋とも言われる。これまで、春、夏の作業の収穫期に入ったわけだな。ところが、夏に種を蒔かなかった場合、当然、秋に実りはない。僕はどんな種を蒔いたっけ?あなたは種を蒔いてますか?

本日の走行距離280km

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Essay | 天然林の紅葉に包まれる

 地球で一番長寿の生き物、樹木。樹齢300年級の大木が棲む九州有数の原生林が残る、宮崎県椎葉村を訪れた。落葉広葉樹が新印象派の点描のように色を重ね、遠くで鹿の声が聞こえる。数百年生きたであろうブナの大木に抱きつくと、心なしか心拍数が下がる。森林の分解酵素が徐々に記憶を溶かしていく。仕事のミスも連れ合いの小言も、手のひらの先からブナに吸い取られていく。

 大いなるものに抱かれると、体と心が一体化し、ありのままの自分になっていくのを感じる。樹々たちはこうして何千年も僕たちに癒しと悦びを与え続けてくれたのだろうか。

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